「清々しき人々」高齢社会の手本となる 貝原益軒

 この書籍は一種の百科事典で内容が斬新で図版も豊富であったため中国でも何度も印刷されていますが、中国での出版から八年が経過した一六〇四(慶長九)年には日本に到来し、次々と版刻されて刊行され、一四種類の出版が確認されているほど注目されていました。さらに原本を復刻するだけではなく、日本独自の百科事典を製作する活動も登場し、『花壇綱目』(一六六四)『訓蒙図彙』(一六六六)などが登場します。

 そのような一例が益軒が日本の動植鉱物を対象に編纂した『大和本草』で、国内で採集できる薬用の動植鉱物を図入りで網羅した内容です。一七〇九(宝永六)年に刊行され、付録と図版は益軒が逝去した翌年の一七一五(正徳五)年に刊行されています(図4)。『大和本草』が明代の『本草綱目』の刺激で実現したように、鎖国をしていた江戸時代の新規の学問領域の開拓には唐船がもたらす中国の知識が重要な情報でした。

図4 『大和本草』

 ところが益軒が並々ならぬ学識で発刊した日本最初の本草学書は後世の学者に影響をもたらし、平賀源内は一七六三(宝暦一三)年に『物類品隲』を、小野蘭山は一八〇三(享和三)年に『本草綱目啓蒙』を発刊しています。平均寿命が四〇歳程度であった江戸時代に、病弱ではあるものの現代の平均寿命に匹敵する八五歳まで活躍した益軒は『養生訓』や『五常訓』によって評価される人物ではなかったのです。

旅人としての益軒

 益軒は病弱であったと紹介しましたが、大変な旅行家でもありました。現在のように便利な移動手段はなく、すべて徒歩で旅行する時代に頻繁に旅行をしています。宮仕えの時代に留学のため京都に旅行したこと以外に何度も国内を旅行し、生涯に八冊の紀行文を出版しています。明治時代初期、イギリスの女性I・バードが一人の男性の案内で江戸から蝦夷へ旅行したことが証明するように安全に旅行ができた国土だったのです。

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